聖書100週間連絡会「便り」6号

大山 悟神父(福岡カトリック神学院) 

「コロナ禍の「苦と死」死を神からの力によって克服する
コロナ禍のために聖書100週間の活動も、多くが中止を余儀なくされていたが、withコロナの時となり、聖書100週間を再度、時を見計らいながら出発させるグループも多くあることだろう。コロナ禍のために集まりが禁じられた期間、どのように聖書に親しむことができただろうか。個人で聖書を読みながら、全宇宙をその根源から支える神の力を黙想することが出来ただろうか。
このコロナ禍のために、だれか身近な、愛する人が亡くなった場合、神の御心に不可解さを感じたり、神を恨み、神を拒絶するに至る人もいたかもしれない。人がどんな苦しみに会おうとも、そして助けを求めても、しばしば神は「沈黙」である。かつてイエスはゲッセマニの園で、受難を前に御父に祈った。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22.42)。天使たちが現れて力づけてくれたが、洗礼(マタイ3.17)や変容(マタイ17.5)の時のように天からの御父の声はなかった。
コロナ感染による死に逝く苦しみ、大切な人との死別の苦しみ、偏見で見られる苦しみ、罹患し人に理解してもらえない後遺症の苦しみにある時、人々はどれほど祈ったことだろうか。そして教会は今も「コロナ感染症に苦しむ人のため」に祈り続けている。多くの人が司祭であるわたしに訴える。「神はどうしたのでしょうか。何故、これほどこの感染症を長引かせるのですか」。しかしわたしには答えはない。ただ「にもかかわらず、祈り続けましょう。そしてお互いに助け合いましよう」。
人の世界から「苦しみと死」がなくなることはない。キリストは人の救いのために「受難と死」を引き受けた。そして救いはそれによって、それを通してなされる。今や「苦と死」は聖なる事態である。そこに神のあわれみと力は最大に働くからである。神からの力によって「苦と死」はなくならないが、永遠の命、神の命に参与するために、「苦と死」は不可欠な要素である。「苦と死」の事態を前に神は二様に働く。かつて神の民が経験したように「浄め」と「新生」である。歴史の中に神は働く。「苦と死」によって命が消えていく人を、神は永遠から受け止め引き受ける。同時に「苦と死」にあってその原因を突き止め克服するように力を与え支え続ける。神の恵み、力は、外から来て、人に付け加わるものではなく、人の命の内に永遠から溢れ出てきて人を新生へと変容させる。わたしたちの心の内奥に働かれる神の働きを感じ取り、神に委ねていこう。私たちの内から神の力が溢れでますように。

吉池 好高神父(東京教区司祭)

 聖書100週間の学びは神のいのちの交わり

 先行きの見えないコロナ禍の中、日々報じられる犠牲となって亡くなられる方々の数の多さに、わたしたちの心は重く打ちのめされています。感染を防ぐために不要不急の外出制限が呼びかけられ、わたしたちの心はますます暗くなって行きます。けれども、このような時だからこそ、もう一度聖書を開いて、じっくりと味わってみたらと思っています。聖書100週間に参加して親しくなられた信仰の友と共に分かち合ったそれぞれの感想、心に残っている分かち合いの言葉を今一度思い出してみるのも良いと思います。

聖書はその初めから、いのちそのものである神と神によって創造された人類がたどった道のりが語られています。特にその道の途中から、神によって特別に選び出されたアブラハムの子孫である神の民の歴史が語られています。出エジプトの困難な旅路において、幾度となく危機に直面した人々と、その都度、決してその人々を見捨てることをなさらない主である神の愛の介入が語られています。そのような神の民がたどった道は、わたしたちの救い主、イエス・キリストに集約されています。

 聖書100週間の学びを通して、わたしたちは、わたしたちの信仰者としての原点に戻るように招かれているのです。十字架の死を超えて、復活された主キリストは、この暗い世相の中にあるわたしたちを、神の子としてのいのちのなかに抱き迎えようとしておられるのです。聖書に語られている人類の歴史と、それに連なっている今のわたしたちの日々は、わたしたちの救い主イエス・キリストの広く開かれた神のみが与えることのできる光と暖かさにあふれた世界へと開け放たれているのです。神の民がその困難な歩みの中で、神に願って想い起すことの出来たいのちの交わりの世界に、わたしたちも新たな旅立ちをいたしましよう。

聖書100週間に栄光あれ

  並木 豊勝(下井草主任神父)

聖書はまだ充分に読まれていないし知られてもいないのですから、これでは日本が福音化されるはずはありません。カトリック信者は聖人たちの教え(例えばマザーテレサの言葉や愛の模範)或いは、もしかしたらどこかで起こったご出現や不思議な事を心の拠り所として信じているのかも知れません。聖人たちの教えは聖書からでてくるのですから聖書を読み黙想し理解することが目的でなければなりません。ご出現やそれにまつわる奇跡などは信じなくてもカトリック教徒であることにかわりはありませんが、聖書の内容を知らず信じないならキリスト教徒ということはできません。

例えば、ルルドやファチマのマリアの出現や関連する奇跡は信じても信じなくても立派にカトリック教徒であることができます。しかし、カナの婚礼でイエスがマリアを”婦人よ”と呼んで”お母さん”とは言わなかったことを信じないなら、聖書から離れた独りよがりの信仰に過ぎないということです。教会も聖書がでたらめに解釈されないように守っていますが、まるで物品を管理するように聖書の上に君臨して守っているわけではありません。教会はみ言葉に仕え、み言葉に基づいて考え、み言葉から教えられながら信徒たちを指導します。

教会には聖書のほかに12使徒に由来する聖伝もありますが、それは聖書から独立した権威ではありません。なぜなら、聖書こそ聖なる伝承の中心で聖伝が聖書からインスピレーションを受けてできているからです。

こうなると皆さん、私たちの信仰も、教会の司牧や福音宣教も全て聖書にしっかりと基づいていなければならないということになりますね。聖書100週間の創始者ルドールズ師が聖書を読み、祈り、黙想し、学ぶ全ての人に天の父の祝福と導きがあるように取り次いでくださいますように!「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタ4.4, 申8.3)のだからです。