救いの歴史は、救う神と救っていただく人間、両者の協同の歴史です。人間がいなければ救いの歴史はありません。その場合、神は救いの神(自分自身)になることができません。赦すことは神の本質(identity)だからです。
次に創3章は、人間が罪を犯したために、罪からの救いが必要になったことを語ります。神に赦される人間と人間を赦す神の共同作業はここからの歴史です。
赦されるべき人間がいるからこそ、神は赦しの神になることができます。人間は神を必要としていますが、神もまた罪を赦すために罪人を必要としています。これは不思議なことですが、歴史の事実なのです。神が人を主体性のあるものとして造った結果、人は自由に、神ではなく自分を選んでしまいました。これが神の意思に逆らう人間の罪です。
ここから旧約聖書はイスラエルの反逆の歴史を語り、時には激しく指導しながら彼らの罪を赦す神を啓示しています。バビロン捕囚587年B・Cを体験した神の民は、これが預言者たちの戒めを無視し続け、偶像を拠り所とした自分の罪の結果だと気付いたのです。バビロン捕囚は民が自分の罪の深さを悟り、赦しの神の優しさに触れて新しい自分に生まれ変わる契機となったという意味で神の大きな恵でした。
新約聖書に偶像崇拝は出てきません。イスラエルは進歩し、救いの歴史はいよいよ頂点に達しようとしています。ところが、この世は神がお遣わしになった神のひとり子を信ぜず、それまでの神の愛を踏みにじり、まったく取返しつかない大罪を犯しました。イエスの十字架の姿を見てください。
ではやはり人間には絶望しかないのか、というと、ここがポイントですが、神の赦しもそれに比例して途方もなく大きなものとなっているのです。
ロマ書(5:20-21)に律法が入りこんで来たのは、罪が増し加わるためでした。しかし罪が増したところには、惠はなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵も義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
キリストの十字架によって神の赦しはこの上なく完全なものとなりました。人が神に逆らって罪を犯しても神は決して失敗しません。神は人間と世界全体に対して必ず責任を取ります。イエスの十字架は、人間を愛したことを断じて後悔しない神の姿でなくて何だというのでしょうか。十字架の神は徹底的に赦す栄光の神なのです。
こうして救いの歴史は人間の罪の歴史を前提にしつつ、最終的にはそれをのり越える神の赦しの歴史となっているのです。