神のことばは分かち合われて力となる

カトリック長崎大司教 ヨセフ 髙見 三明
(聖書100週間連絡会顧問)

髙見神父第二バチカン公会議が聖書についてかつてないほど重要な文書を出してから、今年の11月で50年になります。
「神のことばには非常に大きな力と能力が内在しているので、教会には支えとも活力ともなり、教会の子らには信仰の力となり、霊魂にとっては糧、霊的生活にとっては純粋な尽きない泉となって現れる」(『啓示憲章』21)。実際、神のことばは、教会共同体を造り上げ、救いをもたらす力を持っています(使徒20・32参照)。神学の魂も聖書研究です(『司祭養成に関する教令』16)。このような理由から、すべての信者が聖書に親しむべきである、と公会議は強調します。神のことばを分かち合いながら、それに生かされる方法が聖書百週間です。

生活の手引きとしての聖書

日本カトリック神学院 大山 悟 PSS
(聖書100週間 連絡会代表)

大山神父 私たちキリスト者にとって、神のことばはすべての存在を顕わにする原理であり、世を照らす光であり、歩む道を明らかにする真理であり、今を生きる命の力である。
初めに「みことば」があった。「光あれ」。この光から全てが始まった。今も人はこの光によって生きている。光がなければ闇となり、闇の中では何も見ることはできない。存在はすべて隠れてしまう。光はものを存在させ、顕わにし、持続させる力である。
人は闇の中を歩むことができない。闇の中ではすべての歩み、活動が停止する。闇は存在するものすべて覆い隠し、力を発揮させず、あらゆるつながりを停止させ、生きる力を失わせる。

人には力がある。神に与えられた力が。闇の中でも光に向かって歩む力が与えられている。闇の中でも真理をもとめ、善なるわざを行い、闇から光へと脱していく力が与えられている。

「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3.21)

人は光と闇の日常に生きている。常に光の中にあるわけではない。闇が不意に私たちを覆うことがある。闇が私たちを覆い隠し、一条の光さえ見えない時もある。しかし確かに光りはある。光があるからこそ、人は闇の日常にあっても、希望をつなぎながら生きるのである。

私たちキリスト者にとって日常を照らす光は「みことば」である。「みことば」は闇の中にある人に希望を与えて今を耐えさせ、光の中にある人には感謝と賛美の心を育て、その心を強める。みことはば私たちを生かす力、日常を支える力となる。

聖書のことばを読むときには、心を正し、三位一体の神への信仰を持ち、神の心を開いて、真摯な気持ちで、神の霊の助けを願いながら読むよう心がけたい。その時、聖書のことばの裏に流れる力を感じ取り、そのことばの意味をより深く理解し、そのことばが今日を生きる力となる。
聖書のことばには、神の息吹が込められている。単なる理解するべき意味、概念、ことばとして読むより、私を生かす力として感じ取りたい。頭で理解することに留まらず、理解したことを、心の内奥で受け止め、そこで現に働く神の息吹を感じ取り味わいたい。

聖書100週間。それは全聖書を、時間をかけて読み黙想することによって、聖書のことばの中に示される、人類への神の語りかけを読み取り、味わいながら神の息吹を確認することである。