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聖書100週間連絡会「便り」6号
2019年5月21日
大山悟神父様の講話会
神の恵みのことば

カトリック長崎大司教 ヨセフ 髙見 三明
(聖書100週間連絡会顧問)

髙見神父聖パウロはピシディアの会堂でユダヤ人に話(使徒:13:16-41)、またリストラやアテネでは異邦人に話をしました(4:15-17;17:22ー31)。そして、エフェソの教会の指導者である長老たちをミレトスに集めて、これからの教会の指導を託するにあたって別れの言葉を述べると同時に訓戒を与えました(20:17-18)。その中に次のようなくだりがあります。「今、わたしはあなた方を神とその恵みの言葉に委ねます。この言葉には、あなたがたを造り上げ、すべての聖なる人々と共に受け継ぐ遺産をあなたがたに与える力があるのです」(使徒20:32)=フランシスコ会訳(2013年より引用)。聖パウロは、教会の指導者たちと将来の教会を「神とその恵みの言葉」に委ねたのです。「恵みの言葉」は、イエスがナザレで人々になさった説教(ルカ4:22)、聖パウロとバルナバの手を通して奇跡を行って証しされた言葉(使徒14:3)について言われています。それは恵みから出る言葉、あるいは恵みを告げる言葉ですが、いずれにせよ、共同体をつくる力を持っており、(Ⅰコリ3:5-17、Ⅰペト2:4-10参照)、神がアブラハムに約束の地を受け継がせたように(使徒7:5、ガラ3:18、ヘブ11:8)、キリスト者を救いに与らせる力を持っているのです(使徒26:18、エフェ1:14;18、5:5、コロ3:24、ヘブ9:15、Ⅰペト1:4参照)。私たちも、神とその恵みの言葉に委ねられています。聖書100週間を通して行われる分かち合いによってこの恵みの言葉の力をいただくことができるのです。(2018年3月発行 「聖書100週間連絡会便り 第3号」より)

わたしたちの内における神の働き

日本カトリック神学院 大山 悟 PSS
(聖書100週間 連絡会代表)

大山神父 現代の教会は力強さを失いつつある。高齢化、少子化が進み「神離れ」が深刻になっている。多くのキリスト者が「次世代に、いかに信仰を伝えることができるか」悩んでいる。信仰の対象である神をどう理解し、どう伝えたらよいか分からない。神に対する認識は、昔も今も変わらないはずである。今のわたしたちが神を肉眼で可感的に捉え得ないように昔の人も、神を肉眼で可感的に捉え得なかったはずである。しかし旧約聖書では、神が人と対話する人格的存在として擬人法的に描かれている。例えば、主はモーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた(出3:4)。彼が「はい」と答えると、神は「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(3:5)。神は続けて言われた。「わたしはあなたの父なる神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3:6)。モーセは神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫ぶ声を聞き、その痛みを知った」(3:7)。

これは神がモーセに顕現された場面である。旧約聖書の中では、神を見ると人は死ぬと考えられていた(創32:31)ので、「モーセは神を見ることを恐れて顔を覆って」はいるが、モーセが神と顔と顔を合わせているかのように描かれている。旧約聖書で描かれる神は、このようにいつも民の間近なところにいて、太祖や預言者など特定の人に語りけてくる人格的存在である。現代に生きる私たちにとっても、神は人格的、超越的、内在的、今ここに「共にいる」生きた存在であり、わたしたちは神を存在と命の源として把握している。この神に「祈る」行為によって、話しかけ、聞くのであるが、旧約聖書に出てくるような、神の側からの具体的な可感的な応答や呼びかけはない。信仰の力なしにはこのような抽象的な普遍的な神を、生きた存在として認識することは容易ではないだろう。しかしキリスト者は信仰の力によって、自分が「生きており」「生かされている」という実感から、今、ここで「私を生かす神」を直感することで、神を実存的に把握し、神と人格的な対話を行うのである。キリスト者にとって神はわたしたちを取り巻くあらゆるものに内在し、わたしたちの存在をその内奥から支えるのである。

神は昔の人にも、今のわたしたちにも同じように顕現している。わたしたちが肉眼で神を見ないように、昔の人も見なかった。しかし昔の人たちが神を自分たちの存在と命の源としたように、私たちも神を命の源とすることができる。わたしたちは神ではないので、神はわたしたちを超えた超越存在であるが、わたしたちが存在する限り、永遠からわたしたちに内在し、わたしたちの存在を支え、生かし、永遠に導くのである。神はかつて昔の人々を通して、自分を人間が理解できる概念(あわれみや愛など)で自己啓示されたように、今もわたしたちを通して「、自己の実存と御心を、今のこの時代に顕わにしている。

ここで気をつけるべきことは、神はわたしたちを通して自己顕現するが、わたしたちが神を顕すわけではないということである。もしわたしたちが神を顕現するとなると、わたしたちの我欲がそこに入り込み、私の望みが神の望みの如く描かれ、神の像を曲げてしまうことになる。例えば旧約聖書の中で、神が異宗教の民族を虐殺したかのように描かれるのは、そのためではないだろうか。次世代に神信仰を正しく伝えるために、神についての理解を深めたい。神を単なる知的対象として認識するに留めるのではなく、今の私の存在と命をここで生かし、支えている恵み・力として実存的に直感したいものである。聖書100週間の歩みは、それを可能にするように感じている。(2018年3月発行「聖書100週間連絡会便り 第3号より」)